2019年 今年の漢字

      ダンクグループ

      代表

終わる「平成」のために遊ぶ 

「平成」という元号の時代は30年で終わる。西暦では、1989年から2019年で個人的には35歳から65歳までこの時代を生きてきたことになる。混沌と憂鬱と借金と酒に溺れながら過ごした青春が終わり、少しずつではあるが「大人」としての責任と自覚に目覚め始めていた。二十代の後半に出版社をクビになり、知人の紹介でダイエーのチラシの制作に関わりながらフリーランスで編集とライターのような仕事をしていた。それでも借金と酒に溺れていた。そしてバブル経済がはじけ、ただ溺れていることを世間が許さなくなった。

面白いことがある。今はだれも住んでいない八王子の家と今暮らしている家のささやかな書斎に書庫があって、(そう、書物にも溺れている時代もあったのだ)本というやつは読む読まないにかかわらず、書架に層をなしてゆく。数年前に書庫を整理していて、その層が三層になっているのに気付かされた。最初の層はまさしく青春で、文芸評論や現代詩にまつわる書物、様々な文芸誌、その隙間に月刊プレイボーイや写真誌(歴代の女優たちの写真集)など、その次の層が純文学や映画の評論など。およそ十年単位だと思う。その頃はすでに物書きで生活しようなんてなかば諦めていて、三十代も終わりに差し掛かり、いよいよ未来からの強迫観念におびえ始めていた。

そして平成6年6月ダンクが設立された。もちろん一筋縄ではいかない。創業までの切実さは、紙数が無いのでここでは書かないが、この頃の書架はミステリーや中間小説の類で溢れている。おそらくあらゆるエンターテインメント系の小説は読み漁ったと思う。なにしろ現実から逃れたかったのだ。

ダンクは創立25周年を迎える。25年かけて、ダンクグループは平成という時代に沿うように成長してきたように思う。今回は「今年の漢字」とは別に「平成を振り返る」というテーマだが、この時代ほど人間の愚かしさと無力さを思い知らされたことはなかったのではないだろうか。冒頭で書いたようにわたしは一人の「大人」としてこの30年を観てきた。観ることによって、一方で何かを恐れてきた。

昭和の終焉とともにやってきた大きな経済的な崩壊、阪神・淡路大震災、東日本大震災に代表される人知を超えた未曾有の災害がくりかえされ、いまだに故郷を取り戻せない人たちがいる。追い打ちのように宗教的なものへの不信感をいだかせるようなオウム真理教の事件。政治は何も解決させることなく、つい先日13人を死刑に処した。あたかもバブル時代の時限爆弾が爆発したかのような大手企業の偽装や粉飾決算。挙げればきりがないが、本来為すべきことをやらずにやり過ごしてきた政治と政治家への不信感、そしてなによりも自分自身がそうした時代を経験して何もできないという無力感に打ちのめされる。

しかしそれでもこの歴史は表層的な現象であって、実は人々はもっと深いところで思考力や感受性を喪失させられているのではないかと思う。アメリカにおける政治のマイノリティーへのいわれのない抑圧。それに追従するかのような日本の政治家の発言…。この「平成」という時代が空虚さを残したまま完結されることは、果たしていいことなのか。おそらく誰にもわからない。それでも歴史は常にリピートされ続けるだろう。記憶の中でくりかえし検証し、反省することが大切な気がする。

 今年の漢字は「遊」だ。後ろに(こころ)を付けて、「遊びごころ」だと思ってほしい。新明解国語辞典によると、「遊びごころ」とは「仕事や生活の中に、実用的な目的を離れて、それ自体を楽しむ要素を取り込もうとする精神的ゆとり」とある。ちょっとわかりにくいかもしれないが、ここで言っていることはもちろん仕事や生活をないがしろにしろということではない。仕事や生活を楽しむゆとりと距離感をもつことが「遊びごころ」だと言っているのだ。文科省のバカな大臣が「日本の大学に文学部はいらない」などと数年前に発言したり、別の政治家が生産的でないものは排除すべきだなどと平気で書いている。しかしもともと人間は生産性と非生産性のはざまに生きている。どちらかを失くすということは人間を止めろということだ。

オランダの文化人類学者のヨハン・ホイジンガが『ホモ(人間)・ルーデンス(遊び)』という著書(1938年)の中で「人間とは遊ぶ存在」だと仮定し、その歴史観の中で人間の歴史には常に「遊び」が意識されているのだと考え、「遊び」には一定のルールがあり、人間はそのルールに酔うことで歴史を作ってきたのだという。その考え方は当然戦争にも適用され、ナチスの戦争には「ルール」が無い。つまり人間の戦争ではないのだと彼はナチズムを批判したが、その後第二次世界大戦開戦早々にオランダを占領したドイツ軍によりナチズムを告発したとして捕えられてしまう。日本の戦時中もそうだが、多くの日本人が虚偽のルールに酔わされてしまい、人間としての痛みや真実などを忘れさせられてしまった。そのために多くの命が失われてしまったのは言うまでもないことだ。

結論から先に言うと、虚偽の中で虚偽を暴くのは「遊びごころ」でしかない。なぜなら「遊びごころ」には自己客観性と暴走を阻止しようとするルールがあるからだ。かつてわたしが現実逃避でミステリーやエンタテインメントを読んでいたように、まるでスマホの僕のごとく画面にくぎづけになっている姿は、世界につながっているようにみえて、実は捕らえられているのだと思う。見えない主催者のルールに乗せられているのかもしれない。主催者を発見し、闘うことも時には必要だろう。それも「遊びごころ」の世界に対する客観性だ。

道に志し 仁に依り 徳に依り 芸に遊ぶ

2500年前の孔子の言葉。